忙しいのに忙しくないといえるヒトが大成していく世の中なんだよ。知らなかったの?
いつも「忙しい、忙しい…」と言っている人は本当に忙しいのだろうか?
ただ単に、要領が悪く時間を有効に使えないから「忙しい」状態にしてしまっているだけではないだろうか?
また、そのヒトを客観的に見据え考えた場合、私は「忙しい」を公言するこのヒトに何かをお願いしたいと思うだろうか?
「ご迷惑になっちゃうかな」はとても謙虚な表現だが、「どうせ断られるだろう。」「忙しさにかまけて、手を抜かれてしまうだろう。」が本音だ。
この私の本音が一般論であるならば、「忙しい」を公言するヒトには「誰も頼みごとをしない」ということが常識意見といえる。
誰かに何かを「頼まれない」ということは、自身が思いつかない事柄に挑戦する機会が無くなるということになる。そうなると、未知の物事に対しての知見を広げる機会が無くなり、結果的に経験が浅く、視野が狭いヒトになってしまうことだろう。
仕事の出来るヒトはこれを知っていて「暇で、暇で…」と笑顔を作る。そんな笑顔に誘われて、周りのヒトはスッと心が開き「これなんだけど…」と話しをもちかけられたりする。それをさらに笑顔で受け止めると、そこから新たな世界が広がっていく。
そんな「暇を公言するヒト」のまえに「忙しいを公言するヒト」が現れてこう言った。「これはもっと○○したほうがグッドなものになるよ。ボクは忙しいから出来ないけど」。
「なるほど。どうもありがとう。」「暇を公言するヒト」が言う。
そのアドバイスを活用し仕事を完了した「暇を公言するヒト」は、沢山のヒトから賞賛される。
「でもそれは「忙しいを公言するヒト」のアイディアなんだよ。」と言っても「忙しいを公言するヒト」が達成したことではないのでしょう?。と皆はとりあわない。
確かにそうだけれども…。
出来上がったものに対してではなく、それを実行したことに対してヒトは賞賛しているのです
「賞賛は、やったことに対してであって素晴らしいモノ自体に提唱しているわけではないのですよ。」
あなたがそれを相談され、引き受け、やり遂げたことに対しての賞賛なのです。
言葉とは、それを自直に受け止めることも必要だが、そのヒトの「配慮や心遣い」を言葉の中から感じることがもっとも大切なのだ。
「これを感じることが出来ないヒトが多過ぎる」コミュニティはなんとも寂しいことだろうか。
「忙しい」と公言してしまえる環境に身を置いている方は、いちど熟考してみる必要があるかもしれませんよ。
読了ありがとうございました。